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住職紹介

妙信山良政寺、現住職の戸田秀明上人は、昭和44年生まれ。昭和53年4月28日、9歳にして仏縁により、西宮市の妙龍寺・師父戸田教進上人のもと出家得度する。僧風林5回修了。中学・高校では、剣道部に所属。身延山短期大学にて日蓮教学を学び、宿舎「行学寮」に於いて僧道修行に精進し、2年に亘り寮長を務める。その後、京都種智院大学に編入し、真言密教と仏教学を学ぶ。在学中の平成5年、日蓮宗大荒行堂に挑み、初行を成満。平成6年2月16日、西宮市に普明結社を設立、教導に就任。平成7年1月17日、西宮にて阪神淡路大震災に被災。直ちに単身で被災地を廻る慰霊唱題行脚を始め、鎮魂に務める。以後震災を心に留める為、同日発生時刻前後2時間、唱題行脚を続ける。
平成8年3月、種智院大学仏教学部卒業。卒業論文『日蓮聖人の密教観』は、論文賞受賞。修法布教に専念するも、未熟さ故の困難にあたり、平成9年度大荒行堂に再行(2回目)として入行。大阪管内の御尊聖との尊き御縁を得る。平成10年4月、大阪市西淀川区御幣島に結社を移転、修法布教に精進する。この頃より先代日幸上人の御恩情を賜り、妙信山良政寺の行事をお手伝いさせて頂くようになる。平成19年、日幸上人のお許しと檀信徒の賛同を得て、参行(3回目)大黒相承の秘法相伝を受け、仏天の御加護により成満。平成28年、再々行(4回目)水神相承を受け、七面山敬慎院に奉職。令和元年、五行皆伝(5回目修了)。
令和4年11月1日より世界平和と疫病退治、人々の安穏を祈るために6回目の大荒行に挑みます。

沿革

当山は、往古興福庵と称する地所に、元廣院日寛上人が、淡路屋善右衛門より喜捨を受けて延享元(1744)年に開創。善右衛門の養父母の法名から妙信山良政寺と改称されました。境内には柳の木があり「やなぎ寺」と呼ばれ親しまれた。
開創より270年の間、栄枯盛衰がありました。明治12年、本堂・庫裡全焼。同15年、再建するも困窮し老朽化も甚だしかった。
第23世・上木龍諦 靜明院日然上人は、大荒行七百日成満。大正13年、大阪市東区(当時)より港区に移転し、本堂・庫裡等伽藍を新築。「築港の良政寺」謳われるましたが、昭和20年、戦火により焼失。第24世・上木龍明 靜境院日幸上人は、大荒行五百日成満。昭和25年、檀信徒の丹精により現在地に移転。本堂・庫裡を新築し、同26年、開宗七五〇年を慶讃し、身延山法主・深見日圓上人を大導師に開堂供養を厳修。また、同56年、日蓮大聖人七百遠忌報恩法要を池上本門寺貫首・金子日威上人の御親修を賜り厳修。大荒行堂願満祈祷処として立正平和と人々の所願成就を祈り、また仏道修行の道場として広く門戸を開いて、法灯は守り継がれています。

寺宝

大曼荼羅
御本尊

毎に私たち衆生の成仏を念じて下さっています。

末法唱導師
日蓮大菩薩

お釈迦様の願いを我が祈りとして、この世界を安穏に導き私たちを救うために、そのご生涯を捧げられました。

大荒行願満
鬼子母尊神

五段の邪気を払い、病気を癒し、福徳を授ける

開運尊星
妙見大菩薩

厄除、方除け、開運のご守護

末法総鎮守
七面大天女

因縁消滅、所願成就のご守護

最上三尊
最上位経王大菩薩
妙福大黒天
妙壽龍王神

天・地・人の恵み、福・禄・寿を授ける 社運隆昌のご守護

浄行三尊
浄行水神明王
普賢三宝荒神
烏枢沙摩明王

水と火の神 家内安全、商売繁盛のご守護

鎮守・白龍大善神
当山鎮静、金運招福のご守護